岩内線の歴史

 

明治37年、岩内から小沢まで岩内馬車鉄道株式会社が馬鉄を開通しました。1日8往復で旅客運賃は25銭だったそうです。客車8台と貨車が27台あり、駄馬によってこれを引っ張っていたのですが、それでも従来のでこぼこ道を走る馬車や、幌馬車にくらべると格段に便利になったようです。

これに先立ち、現在のJR函館本線(当時は函樽鉄道)の計画がありました。明治29年、北海道鉄道敷設法が公布され、函館ー小樽間はその第2期線に編入されていました。同39年函樽鉄道株式会社が設立され、路線計画を発表しました。

その計画路線は岩内町を全く外れたルートだったのです。赤井川村から山間部を走って倶知安に至るコースだったと言います。岩内の町の有力者たちは、岩内鉄道同志会を結成し、函樽鉄道が岩内を通るよう運動しました。しかしなかなか地元の望み通りには進まず、同志会関係者は何回も巻き返しを図ったのですが、成功しませんでした。ルートは現在の形に決まり、岩内を通らないことになりました。それでもなんとか小沢を通るよう変更させることに成功し,
明治37年に現在の函館本線のルートで函樽鉄道が開通しています。

そこで、やむなく有志が出資し合って岩内馬車鉄道株式会社を設立し、函樽鉄道の小沢駅から岩内まで馬鉄を敷設することになりました。このルートがのちに岩内線ヘと発展しました。

岩内線は倶知安付近から出る貨物を岩内港に輸送するのが主目的でした。大正元年11月の開通で、一部は馬鉄の線路を買収して敷設しました。従って岩内線建設と同時に馬鉄は営業を廃止しています。

当初は小沢駅岩内の間が直行となっていたのですが、その後大正2年9月前田駅、大正8年12月幌似駅、大正11年11月田駅、昭和38年10月西前田駅が設置されました。

初めはしばらく客貨混合編成で、各駅で貨車の入れ換えなどに手間取り、停車時間が長く、1日7往復のみの運行でかなり不便だったと言います。

昭和37年2月から客車と貨車を分離し、旅客列車は気動車となり、上下21本に増加しました。その中には札幌まで直通の急行「らいでん」もあり、これは地元の人たちには懐かしい響きを持つ列車名のようです。翌年西前田駅が開かれ、地元住民の便利な交通機関となりました。 
旅客用の気動車とは別に、蒸気機関車は貨物列車専用として上下6本となり、岩内平野を噴煙を上げて蒸気機関車が走る風景は、一部のSLファンの間では絶賛されていたものです。

ところが、その頃はすでに岩内線の輸送実績は傾きかけていたのです。何しろ水産業、林業・木材業、鉱業など、岩内線を利用していた産業は軒並み衰退してしまったのですから無理もありません。貨物列車を引くSLは昭和48年10月に廃止され姿を消しました。昭和50年代の1日1キロ当たり平均旅客輸送実績は835人で「赤字ローカル線」の烙印を押され、国鉄合理化の対象とされました。

そして昭和60年6月30日をもって廃止され、国鉄に代わるバス運行になりました。